2011年の東日本大震災から15年が経過した。3月11日が近づくと報道が増え、思い出す機会も多くなる。一方で、日常における防災意識は、被災地から離れるほど薄れているのではないだろうか。
2026年4月24日、東北地方を訪れる機会を得た。せっかくの機会でもあり、震災遺構にも足を運ぶことにした。震災発生から181ヶ月後に目にした街並みは、いまではすっかり復興したかのように見える。しかし、「遺構」だけは、あの日から時が止まったままであった。
本稿では、私が訪れた震災遺構のいくつかを紹介したい。遺構が語りかけてくるものに改めて耳を傾けることで、多くの気づきを得ることができた。被災地を訪れる際には、ぜひ足を運び、記憶を新たにしていただきたい。
1. 旧女川交番
旧女川交番は、鉄筋コンクリート造の普通の交番が津波によって横倒しになったものであり、現在、震災を伝える遺構として保存され、一般公開されている。
| 場 所 :宮城県牡鹿郡女川町海岸通り(海岸広場内) アクセス:JR石巻線女川駅から徒歩3分、三陸自動車道 石巻女川ICより車で約30分 |
(1)東日本大震災による女川町の被害
宮城県女川町は、2011年3月11日の東日本大震災において、東北沿岸部の中でも特に壊滅的な被害を受けた町とされる。地震後に襲来した津波は、最大津波高:約14.8m、津波遡上高:34.7mの規模に達したとされ、海の近くから、内陸まで広く津波が押し寄せた。震災当時、女川町の人口は約1万人だったが、死者・行方不明者を合わせて800人超とされ、人口比では東日本大震災で最も犠牲者が多かったとされる。
港から1km以上内陸まで津波が到達し、女川駅周辺や女川港、商店街などは深刻な被害を受けた。町内の住宅被害は、住宅総数4,411棟に対して、被害3,934棟で約9割に達した。そのうち全壊は2,924棟とされる。
(2)横倒しになった建物
女川町では、鉄筋コンクリート建築までもが横倒しになる異例の現象が起きた。このうちの一つが、今回訪れた「旧女川交番」である。他にも有名になった建物(江島共済会館など)がいくつかあったが、解体されている。
旧女川交番は、鉄筋コンクリート造2階建てで、昭和55(1980)年に建てられた。東日本大震災による津波により海中に没した旧女川交番は、引き波により基礎部分の杭が引き抜かれ、現在の位置に移動して横倒しになったものと考えられている。鉄筋コンクリート造の建物が津波で転倒したのは、世界的にみても希少とされ、また、日本では初めての事例である。
画像では、小さく感じられるかも知れないが、実物に接すると、普通の交番といえども、建物の物量に圧倒される。津波のエネルギーの巨大さには理解が及ばないものがあった。
名所・旧跡や戦災の遺構に接すると、現代の技術で補強や塗装がなされていることに気付くことがある。神社仏閣の修復でも、近年は最新の樹脂技術などがふんだんに投入されることがある。
対して、旧女川交番は、震災当時のままの状態ができるだけ保存されている。内部の鉄筋部分には防錆処理などがなされているようだが、外壁面には、マンションの大規模修繕に用いられるような撥水性の透明の樹脂塗料は塗布されていない様子であった。現地の説明文にも、未来永劫に残すということを主眼とせず、できる限り震災の生々しさを伝えることを考慮した旨が示されていた。
たしかに、妙にきれいに化粧されていない姿は、災害の生々しさを強く伝えていた。
・旧女川交番は、周辺地域に盛り土がなされたことによって、一段低い位置にある。このことによって、高い位置から眺めることができた。
・建物には、漂流物がぶつかって壊れたものと思われる跡が見られるほか、漂流物などの残骸も遺されている。

交番を囲う壁には、震災前の町の様子や被災状況、まちづくりの過程などを記したパネルが展示されている。
(3)周辺地域
旧女川交番から歩いて5分ほどの場所に新しく建てられた女川駅があった。温浴施設もあるとてもおしゃれな建物であった。


駅から海に向かってみた再開発された街。前方に海が見える。広い道沿いにお土産屋やカフェなどが並ぶ。
参考)
女川町ホームページ
https://www.town.onagawa.miyagi.jp/archive/ayumi/ayumi.html
日本技術士会 近畿本部 環境研究会 特別講演会
https://www.pe-eco.jp/articles/show/320/
女川町の「震災遺構活用方策検討業務ダイジェスト」
https://www.town.onagawa.miyagi.jp/archive/pdf/20150916_shinsaiikou_keii.pdf
震災遺構を紹介した動画も公開されている。
①東日本大震災シリーズ90 震災遺構 旧女川交番~震災9年 宮城~
https://youtu.be/vw4KLctTN9M?si=xsVsFYR7bnKnHmKI
②FNN 311 大きな被害を受けた女川町[震災3日目]
https://youtu.be/4kqYM3CxYQk?si=WZsL0aRbMnqJQ39r
2. 石巻市震災遺構大川小学校
大川小学校では、津波によって多くの児童と教職員が犠牲となった。当時の詳細を伝える震災遺構として、破壊された校舎や資料館が一般公開されている。
| 場 所 :宮城県石巻市釜谷字韮島94番地 アクセス:三陸沿岸道路(旧三陸縦貫自動車道) 河北ICから約20分 |
(1)東日本大震災による当該エリアの被害
東日本大震災によって、石巻市の大川地区は、大きな被害を受けた。大川地区人口は約2,500人であったが、418人が犠牲となった。大川地区は、海岸からは約4キロメートル内陸に立地するものの、川や低地が入り組んでおり、津波が河川も遡上しやすい地形であった。震災当日、巨大津波は、太平洋側から陸地へ侵入すると共に川(新北上川)を遡上、長面地区側から陸上を進行し、河川を遡上した津波と陸上からの津波が大川小学校周辺で合流したと考えられている。
(2)大川小学校

大川震災伝承館に保存される時計は、針が15時37分を指したまま時は止まっている。
震災発生から約50分が経った15時37分頃、大川小学校へ津波が到達した。児童や教職員の避難は完了しておらず、その時点で小学校にいた78名の児童のうち74名が犠牲となった(4名は遺構が公開された2021年6月時点行方不明)。その場にいた教職員も11中10名が犠牲となった。
当該小学校では、地震発生後の判断が遅れ、校庭に児童たちが待機していた。なお、学校の裏側には、児童も学習等で利用していた山が存在していたが、そこへ避難するという判断はなされなかった。
犠牲になった児童の遺族は、石巻市と宮城県を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。二審の仙台高裁は、津波の危険性は事前に予見可能であると共に、学校側の防災体制に不備があったとして、石巻市と宮城県に賠償を命じた(2019年に最高裁が市・県側の上告を棄却、確定)。
(3)震災遺構として
大川校舎は震災遺構として保存され、2021年から一般公開されている。
校舎には津波による破損個所が多数ある。大量の流木が津波によって押し寄せた結果とされる。

校庭から見た裏側の山。なだらかな斜面であり、段になっている部分への通り道もあった。ここへ避難するという判断がなされなかったことが残念である。
裏側の山の段の部分を歩いている様子。通行部分は舗装されている。
裏側の山からの写真。右手前にステージがあったが、津波で破壊されている。
参考)
石巻市震災遺構 大川小学校
https://drr.miyakyo-u.ac.jp/memories/project/okawa
YAKUSHO HP
https://www.yakusho.jp/news/1664
3. 最後に
東日本大震災のような巨大地震は、自然災害であるのと同時に、人災という側面があることを感じた。災害を前にすると人の力は小さいものではあるが、できることはたくさんある。防災対策を行う組織体制の目詰まりを減らしたり、制度上の課題を明らかにしたりすることは、人災を減らす意味では有効と思う。そうした対策の検討にも力を入れていきたいと思う。

設置された碑文
「ここには町がありました
生活がありました
いのちがありました
子どもたちが走りまわっていました」と記されている。